6月20日(水) リトアニア、ビルニュス
10時半ごろにゆっくりと起床し、11時半ぐらいから町へ繰り出す。
マーケットに行ってみた。


タリンやリガのそれと近しい雰囲気。地元の人々の生活に欠かせない空間になっているようだ。やはり、ここでも果物は豊富。
ちなみに、買う量は自由に選ぶことができる。秤にかけられ、正確な重さに基づいて価格が決められる。値段交渉の余地はないが、ぼったくられる心配はないし、一方的に売りつけようとしてくることもない。東南アジア等のマーケットと比較して、外国人でも安心して買い物ができるといえるだろう。
夜明けの門を抜け、旧市街へ。
ふと道端を見ると、いたたまれない表情で佇む女性の姿が。手には薄汚れた小さな紙コップ。そういえば、昨日も同じ場所で見かけたな。
少し歩いて、迷ったがその場所に戻り、1ユーロのコインとさっき市場で買った干し葡萄を分けると、ほんの少しだけ安堵の表情を浮かべる女性。
悲しいかな、どこの国にも物乞いをしている人はいる。
社会福祉が充実している北欧の国々でさえ、例外では無かった。
俺がしたことは多分、自己満足でしかない。路上で見かける全ての物乞いに対して、何かを与えることなんて到底不可能だ。
その一人に、少しばかりのお金を手渡したところで一体何が変わるというのだろう?
だが、忘れることのできない光景がある。
ノルウェーの首都オスロにて。道端で佇む一人の女性。その風貌から、どこかの国からやって来た移民であることは容易に推測できる。脇には、その人の家族であろう人々の写真が立てられている。
家族を失ったのだろうか?それとも、離れ離れになってしまったのだろうか?もしくは、恵みを乞うためだろうか?
一瞥さえせず無情にも通り過ぎてゆく人々。
と、そこへ。同じく移民であろう夫婦が駆け寄った。「大丈夫だから」と語り掛けるかのように、心配そうな、優しそうな目で食べ物を差し出す、、、、、
「ありがとう。本当にありがとう。」
バルト三国に来てからも、必ずと言って良いほど物乞いをしている人を見かける。(もちろん、インドと比較すると数は多くないが、、、)
それと同時に、物乞いをしている人々に話しかけ、何かを恵んでいる人々の姿を度々目にする。
キリスト教の教えだろうか?そう感じるのは、そこに一種の愛が垣間見えるからだ。
日本ではどうだろう?日本には、厳密な意味での物乞いはいない。それは、乞食行為が軽犯罪法で禁止されていることに由来する。だが当然、日本にも路上生活をしている人はいる。
正直なところ自分は、これまでそういった人を目にした時。なるべく見ないように、なるべく関わらないようにその場を通り過ぎようとしていたように思う。
果たしてそれは正しい行為だと言えるだろうか?
今の俺には分からない。
資本主義で世界が回る以上、格差は生まれるべくして生まれる。
富める者は富む一方で、貧しい者はどんどん貧しくなっていく。一部の人間が富を独占し、タックスヘイブン等で税金を逃れる一方、度重なる消費増税により、庶民の生活は苦しくなる。
頑張った人が報われる。非常に分かり易い理論ではある。
だが、憲法には生存権ってのがある。
果たして、路上生活をしているような人々が「健康で文化的な最低限度の生活」を維持できているといえるのだろうか?
よりよい未来のために、何ができるだろう?

しかし今日は暑い!!!
まじで暑い!!!

昼間っからビール飲むやつ(俺)
今日は、休養日や。そうしよう。
バルト三国のバーやレストランでは、屋外に座席があり、外の雰囲気を楽しみながら食事やお酒が楽しめるところが多い。しっぽり飲んでいると、近くで地元のストリートミュージシャンが演奏し始めた。

良い歌やな。ギターも歌もそんなに上手いわけじゃない。だが、心で歌ってるってのがすげー伝わってくる演奏や。俺が好きな感じのやつや。
やっぱり俺もちょっと歌うか!
てなわけで、同じ場所で俺も演奏。


こんな感じで1時間ちょっと、結果は19ユーロ。
ギターと、スマホと、パスポート。それさえありゃ、多分俺は世界の広い地域で生きていける。それは日本という国で生まれ、日本の恵まれた教育を受けることができたからだ。
地球ってのは素晴らしいところでもあり、この上なく残酷なところでもある。
よりよい未来のために、何ができるだろう?
その後。


雨が降って来たので、宿に退散。

そんなビルニュスでの1日だった。
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